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医薬ジャーナル 2018年6月号(Vol.54 No.6)

p47(1383)~p49(1385)


医薬ジャーナル 論壇


行動経済学と薬剤師

寺 田 智 祐

滋賀医科大学教授・医学部附属病院薬剤部長(てらだ・ともひろ)


Summary
 2017年のノーベル経済学賞は,行動経済学に関する業績であった。実は,行動経済学が脚光を浴びたのは,2002年のノーベル経済学賞まで遡る。当時の受賞理由は,「不確実性下における人間の判断や意思決定に関して,心理学の研究成果を経済学の考え方に統合したこと」とある。それまでの伝統的な経済学では,「ホモ・エコノミカス」と呼ばれる,非常に合理的で,完全な情報と計算能力を持っていて,常に自分の満足度を最大化するように行動する人間像を想定していたが,行動経済学は従来の説に対する強烈なアンチテーゼでもあった。振り返って,医療界はどうであろうか?例えば,患者は常に病気の治療に前向きに取り組み,医師の指示には100%従い,治療中の様子を医療者へくまなく報告する者ばかりであろうか?実際そうでないことは,誰でも知っている。本稿では行動経済学が示唆してくれる,行動科学の知見について紹介したい。




「エコノミスト」の3択
 「エコノミスト(The Economist)」というイギリスの週刊新聞の年間購読に関する広告が,以下のようにネット上に掲載されたそうだ。

① WEB版:59ドル
② 印刷版:125ドル
③ WEB版と印刷版のセット:125ドル
 「エコノミスト」はビジネス誌であるが,興味のある分野(業界誌,学術誌,趣味に関する情報誌など)に置き換えてもらうと,より親近感がわくであろう。果たして,今これを読んでおられる賢明な読者の方々は,どれを選択されますか?
 直感的な思考としては,① WEB版の年間購読が59ドルということは,月に約5ドル,まぁまぁ,お得かな。② 印刷版の125ドルはWEB版に比べると随分高めかな。③ 一般に,セット価格は,単品価格の合計よりも安く設定されているけれど,今回の場合,セット価格で125ドルということは,印刷版単独と同じ金額である。言い換えれば,セットを選べばWEB版を0ドルで購入できることになる。WEB版で事足りるが,たまに印刷版を手にとってみるのも悪くないか…。トータルで見ると,セットが一番お得かな。
 これは,行動経済学の実例についてユーモアを交えて解説している,ダン・アリエリー博士の『予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(早川書房,2013年)の第1章で紹介されている事例である1)。アリエリー博士は,大学で教鞭をとっているため,気になることはすぐに学生を対象に実験することでも有名である。そこで上述した ① ~ ③ をMIT(マサチューセッツ工科大学)で経営学を専攻している学生100人に選んでもらったところ,結果は以下の通りだったそうだ。
① WEB版:59ドル …………………16人
② 印刷版:125ドル ……………………0人
③ WEB版と印刷版のセット:125ドル
  …………………………………………84人
 先ほどのロジック通りの答えである。さて,「エコノミスト」のマーケティング担当者は,どのような巧みな技を使って,このように高い商品を選ばせるように仕向けたのだろうか?

おとり効果
 一般に,人間は,ものごとを絶対的な基準で決めることはなく,他のものとの相対的な優劣に着目して価値を判断すると言われている。また,大半の人は,自分が何を求めているのかが分からず,状況とからめて初めて,それが何なのかを知るケースが多いそうだ。「エコノミスト」の場合,59ドルのWEB版と125ドルの印刷版は,どちらが得なのかは判断が難しいが,WEB版と印刷版のセット(125ドル)は,印刷版(125ドル)と比べて明らかに得であることは容易に分かる。相対的に判断しているのである。そこで,アリエリー博士は,この3つの選択肢の存在そのものが,選ぶ過程に何らかの影響を及ぼしているのではないかと考えて,次の2択を用いて,改めて同様の実験を行った。
① WEB版:59ドル
② WEB版と印刷版のセット:125ドル
 先ほどの3択から,前回,誰も選ばなかった選択肢を除いた2択に変更している。2つの内容は全く変わっていないので,合理的に考えれば,前回と同じ傾向になるはずである。ところが,結果は以下のように,3択の場合と比べて全く逆の結果となった。
① WEB版:59ドル …………………68人
② WEB版と印刷版のセット:125ドル
  …………………………………………32人
 これはどういうことであろうか?明らかに合理的な理由ではないが,アリエリー博士は,『おとり効果』という概念を用いて解説している。すなわち,最初の3択の際に,セットを選んだ理由は,「印刷版:125ドル」という『おとり』の選択肢があったからである。『おとり』がなくなると,セット版は割高に感じたためにWEB版単独を選ぶ人が増えたということになる。こういった『おとり』の効果は,我々の知らないうちに,実社会のさまざまな場面で巧みに組み込まれていることも紹介されている。一例をあげると,レストランのメニューにおいて,値の張るメイン料理をメニューに載せると,たとえそれを注文する人がいなくても,レストラン全体の売上は伸びるそうだ。つまり,たいていの人は,メニューの中で1番高い料理は注文しなくても,次に高い料理を注文するケースが多いからである。そのため,値段の高い料理を1つ載せておくことで,お客を2番目に高い料理へ誘導でき,店側は,2番目に高い料理の利ざやを高くしておくことで収入増に繋がるということである。こういったことは,本当は知らない方が幸せなのかもしれない(苦笑)。

行動経済学と伝統的経済学2)
 さて,行動経済学は,伝統的経済学に対する批判的な研究分野として生まれたが,1990年代以降の急速な発展を経て,現在では主流派経済学の一部として扱われている。大きく脚光を浴びたのは,2002年のノーベル経済学賞を心理学者・・・・ダニエル・カーネマン教授が受賞した時に遡る。「心理学者が経済学賞!?」,と驚いてしまうが,歌手ボブ・ディランが文学賞を受賞したように,画期的であったのだろう。受賞理由は,「不確実性下における人間の判断や意思決定に関して,心理学の研究成果を経済学の考え方に統合したこと」とされ,経済学の歴史の中でもエポックメイキングな業績と考えられている。ちなみに,2017年のノーベル経済学賞も行動経済学に関する業績で,リチャード・セイラー博士が受賞している。
 伝統的な経済学では,人々は非常に合理的で,完全な情報と計算能力を持っていて,常に自分の満足度を最大化するように行動していると考えられてきた。このような人間像は「ホモ・エコノミカス」と呼ばれている。複雑な経済活動を数学的に記述するために,「ホモ・エコノミカス」という仮定をおくと便利であったという側面が大きい。ところが実際には,人間が「ホモ・エコノミカス」ではないことは,我々自身がよく知っている。例えば,情報を十分に利用しなかったり,冷静な計算ができなかったり,合理的でなく直感的な意思決定をすることが多い。また,一度決めたことを先延ばししたり,誘惑に負けてしまったりすることは日常茶飯事である。行動経済学とは,こうした現実の人間の行動特性を前提にした経済学と考えられている。言い換えれば,「ホモ・エコノミカス」と乖離した,リアルな人間のクセを理解する学問と言っても良いかもしれない。

医療とホモ・メディカス?
 さて,現代の医療に目を向けて見ると,「検診の受診率が低い」,「お任せ医療が多い」,「残薬が多い」,「病状などを,医師へ正直に話さない」など,行政・医療者側から見て,国民・患者の医療行動を非難することも少なくない。果たして,国民・患者は全員,「病気の治療に前向きに取り組み,医師の指示には100%従い,治療中の様子を医療者にくまなく報告する」人ばかりであろうか?「ホモ・エコノミカス」に対応させて,「ホモ・メディカス」とでも言おうか――。
 そうでないことは,医療者なら誰でも知っている。例えば,検診の問題で言うと,行動経済学でよく話題に上る「先延ばし(現在バイアス)」という現象で説明できる。現在バイアスは,常に現在の利得を重視してしまうというバイアスである。長期的には,健康を考えて検診を受けるという計画を立てても,いざ近日中に行おうとすると,費やす時間やお金を浪費と考えて,それを先延ばししてしまうのだ。アリエリー博士によると3),「悲しいかな,ほとんどの人は,長期的な目標を目指すよりも,今この場で喜びを与えてくれることをやりたがる。…中略…,要するに,長期的な目標のために短期的な犠牲を払えないのは,だれにでもあることなのだ。」ということだそうだ。

行動科学に関する知見の薬剤業務への応用
 大阪大学社会経済研究所の大竹文雄教授によると,行動経済学でよく知られている意思決定のバイアスには,次の4つがあるという1)。第一に,論理的な思考の結果や確率計算に基づくのではなく,代表的なものに依存してしまう「代表性」。第二に,意思決定をする際に想起しやすいものに依存してしまうという「想起性」。第三に,無関係な情報を与えられると,意思決定がその情報に依存してしまう「アンカリング」。そして,第四に,冒頭の事例で紹介したように,絶対的なものよりも,相対的なものから満足度を感じることが多い「相対性」。経済というフィールドに焦点が当てられているが,さまざまな意思決定において,これらのバイアスが関わっていることは容易に想像できる。であるなら,逆にこれらをうまく理解・活用することによって,スムーズな意思決定を促すことも可能であると考えられる。実際,アメリカでは,政策への応用が進みつつある4)。おそらく,医療政策や実地医療における活用法なども,そのうち紹介されてくるだろう。
 しかし,そんな実例を待っているばかりではもったいない。薬剤師として,患者や処方医の意思決定のサポートを行うことも少なくないが,上述したバイアスをうまく活用すれば,より円滑に医療が回ることは想像に難くない。相対性のバイアスなど,処方医に薬を提案する際に,うまく応用できそうだ。また,リーダーとしてチームや組織を動かす立場の薬剤師にとっても,多くのヒントを得られる可能性は高い。人間くさい行動経済学の実例,すなわち行動科学の知見は,我々薬剤師がワンランク,ステップアップするためのコツを色々と教えてくれることは間違いない

 筆者自身,経済学については全くの素人であるが,ついつい行動経済学に肩入れしてしまうのは,「行動経済学」が「経済学」の主流派の一部として扱われるようになってきた歴史と,「医療薬学」が「薬学」の学問領域の一つとして確立されるために歩んできた道のりとを,重ね合わせてしまうからである。






文献
1)ダン・アリエリー:予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」.早川書房,東京.2013.
2)多田洋介:行動経済学入門,日本経済新聞出版社,東京.2014.
3)ダン・アリエリー:不合理だからうまくいく―行動経済学で「人を動かす」.早川書房,東京.2014.
4)Obama, Barack(2015)Executive Order - Using Behavioral Science Insights to Better Serve the American People


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